2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の放送が開始されました。
歴史で真田といえば、真田幸村を思い浮かべる人は多いと思いますが、
そもそも「真田丸」とは何のことでしょうか?
一見、船の名前っぽい気もしますし、五郎丸人気にあやかっているのか?
歴史に詳しい方は当然ご存知かと思いますが・・・・。
真田丸とは、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣において徳川方を迎え撃つために
真田幸村が築いたとされる出城のことです。
「出城」とは本城の守りを固めるための城のことで、この大坂冬の陣に於ける
本城は大坂城です。
でも、真田丸の形状は城というよりは、土塁や柵、堀で区画されたようなもの
だったので出城ではなく曲輪(くるわ:城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い)
と表現されている文献もあるそうです。
また、慶長5年(1600年)に徳川秀忠と戦った第二次上田合戦での経験を生かし真田丸の形状を半円形に築いたとも言われています。
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関が原の戦いで、東軍(徳川側)が勝利したため、真田父子は罪人として高野山・蓮華定院に
蟄居(ちっきょ:閉門の上、自宅の一室に謹慎させる刑罰)となり、のちに九度山にある
善名称院に移りましたが、翌年幸村の父、昌幸が病死してしまいます。
1614年の春、豊臣秀頼側から「徳川家を倒すために協力してほしいという」内容の密使が
来たため、監視の目を欺き九度山を脱出、大坂城に入城します。
大阪冬の陣開戦の1ヶ月ほど前、幸村は大坂城を守るうえで弱みとなるのは平坦な台地
続きとなっている南方であると見抜き、ここに出城を築く許しを得て作ったのが真田丸で、
自らその出城で指揮を執りました。
慶長19年(1614年)12月4日、徳川方の先制攻撃をきっかけとして始まった戦は
真田丸の戦いと呼ばれています。
その戦いで20万を越える徳川軍が大坂に押し寄せますが、幸村は巧みに敵兵を真田丸付近
までおびき寄せます。
そこへ一斉射撃を浴びせ、さらには少数隊で突撃。約1000人もの敵兵を討死させ、幸村は
誰1人として大坂城に侵入させず、徳川側に大きな打撃を与えることに成功しました。
しかし、最終的に大阪冬の陣は両軍が和議を結ぶ形で終結し、その条件に従い真田丸は
破壊されることになり大坂城の外堀と一緒に埋められてしまいました。
外堀を埋められた大坂城は丸裸となり、このとき、幸村は家康から幕府側につくよう2度
誘われましたが、幸村はかたくなに拒否し、翌年の大坂・夏の陣で後世に
「日本一の兵(つわもの)」と称されて語り継がれることになります。
現在、真田丸の跡地には三光神社が建立され、そこには真田丸と大坂城を結んでいたと
される「真田の抜け穴」跡があります。
現在その入り口は真田の六文銭を掲げた鉄の扉で閉ざされていますが、1年に1日だけ、
真田祭りの日(例年11月第一日曜日)には開放されるそうです。