高級食材が庶民の口に
和食の基本となる出汁をひくための代表はかつお節。
伝統食材でありながら、高度経済成長の中でも生産量を伸ばしてきました。
1960年代には約6000トンだったものが、2015年には輸人品を含め約3万1000トンにも達しています。
ただ、私たちが子どもの頃を振り返ってみると、あまりかつお節を食べたという記憶はありません。
場所にもよりますが、出汁といえば煮干しが主流で、かつお節は上品な高級食材だったのです。
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いったい日本人は、いつから、どのように、かつお節を食べてきたのでしょうか。
現在のかつお節と同様のものは、17世紀末(江戸時代初期)に土佐(高知)で作られたといわれています。
それまでにも、煮熟して焙乾させただけの荒節は作られていましたが、乾燥カビ付けをした改良土佐節が、最も品質が良いかつお節として評価されていたのです。
当時、各地のかつお節は、ほとんどが大坂、京都、江戸に運ばれ、武士階級や富裕階級など一部の人の口にしか入らなかったようです。
庶民の口に入るようになったのは、明治から大正にかけてです。
カツオの漁獲量が増えるに従い、かつお節の生産量も増えていきます。
高級食材でありながら、安い商品も出回るようになったのです。
また、都市人口の増加によって、中間層が増え、素材を購入して家庭で調理をするようになります。
生活習慣の変化によって、かつお節などの乾物を購入するケースが増えたのではないかと考えられます。
植民地支配と南洋節
現在の主要産地は、静岡の焼津、鹿児島の枕崎と山川。この3ヵ所で、日本で消費されるかつお節のほとんどを生産しています。
伝統食材だから当たり前だと思うかもしれません。しかし、インドネシアや台湾でも、かつお節が作られていることをご存じでしょうか。
第1次世界大戦後、日本が植民地支配をした南洋群島でも、かつお節は作られていました。
カツオ漁獲高の50%を占める好漁場を背景に、1937年には、かつお節生産量の37%を占める最大の生産拠点にまで成長していました。
内地のかつお節メーカーを脅かすほどだったのです。
ただ、第2次世界大齢の終戦とともに、生産鎖点は消滅してしまいます。
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南洋節が復活したのは80年代以降。背景には、「削り節パック」「風膝調味料」の登場があります。
69年に、老舗問屋の「にんべん」が、削り簡の小ロパック「フレッシュパック」を売り出しました。
独自の透明フィルムを開発し、不活性ガスを入れることで、風味が失われず長期保存を可能にしたのです。
現在、私たちが見るかつお節は、ほとんどこの形態になっています。
さらに、80年代には風味調味料が登場します。
粉末出汁をはじめ、めんつゆ、ふりかけ等、かつお節のこくやうま味を際立たせたもの。
特に最近は濃い「こく」をうたい文句にした商品が増えています。
伝統食品を守る「家業」
削り節にする以上、本枯節など本格的なかつお節は必要ありません。
荒節と呼ばれる状態で十分。インドネシアでは多くの中国系資本が参入するほどの注目産業になっているのです。
グローバリゼーションの進展とともに、日本でもアメリカ型の会社が増えています。
そこでは、良いものを作ることより、資本をどのように増やすかが重視されます。
何をやってもよいから、とにかくもうけが最優先。
それで大きな会社になったら、どこかに売り飛ばしてしまう。大量生産によって生産者と消費者の距離はどんどん開いてしまう。
その結果、小売業者の都合で、生産地は疲弊してしまいます。
かつお節に関する取材をする中で、にんべんの専務・秋山洋一さんの言葉が印象深く残っています。「うちは家業ですから」と。
家業というのは、商売関係や、作っているものが基本。
そこにこだわり、守り抜いていく。そんなことを「家業」という言葉で表してくれたように感じるのです。
かつお節は、日本独自の商品といってよいでしょう。
グローバリゼーションの進展とともに多くの伝統食品が姿を消す中、かつお節は姿を変えながらも、たくましく生き残っているのです。